ボードゲームにおいても(ひいては色々な作品においても)、それに出会ってから、自分の中で「こういうものである」と結論付けするまでの思考する時間はとても重要だと思っています。それに付随する事例として、ボードゲームのインストでは「とうやったら強いのか」 、「どういう風に楽しむのか」といったことは教えないほうがよいという意見が聞かれます。相手に勝つ、相手と楽しむためのボードゲームにおいてその方法を教えてしまうことは、思考の体験(=楽しみ)の一つを奪ってしまいかねないからです。
ボードゲームを趣味とする界隈には、リプレイ派と非リプレイ派という人たちが存在します。派と書いてしまうと対立しているように捉えられるので、しばしば議論のネタにあがるのですが、おそらく明確に自身の属する派閥を意識している人は極少数で、そもそも趣味の話なのでそれぞれの派閥についてとやかく言うのは無粋でしょう。
リプレイ派(同じゲームを何度もプレイする人)の中にも二通りいて、「強い戦略をみつけるため」「繰り返し遊んで楽しむため」、という人(あるいはその両方)がいます。前者は、やはり結論を見つけるためにプレイすると言えますが、ほとんどの場合最適がみつからないため、その人が満足するまで追求したぐらいで(人によってはシステムの大枠やその動きがわかった程度で)いつしかプレイしなくなるのではないかと思います。そういう意味では非リプレイ派と本質的には同じかもしれません。後者は、ちょっと違っていて、「繰り返し遊んで楽しむため」にリプレイする人は、ゲームに対する考えなど、なにか実質的な進展がなくても繰り返し遊ぶため、本当の意味でのリプレイ派と言えそうです。
前者のリプレイ派のリプレイ理由はゲームが難解で、解き甲斐がありそうだからというのが一つです。後者のリプレイ派のリプレイ理由は何はなくとも純粋にプレイが楽しいからでしょう。これ以上の理由は必要ありません。しかし後者は極端なことを言えば、これ以上に楽しいものを見つけたらリプレイをやめてしまうということになりそうです。
これは結局どんなことにも当てはまって、完全なリプレイ派なんてよほど変な人か事情を抱えている人ということになるんじゃないでしょうか。呪いとか。
そういう意味ではリプレイ派と非リプレイ派と区別してもしょうがありません(そもそも地続きなのですが)。非リプレイ派が仮にいるとして、リプレイしない理由でもっともらしいものといえば、この世に無数のゲームがあるからやりつくすためには時間がいくらあっても足りない、同じものをやっている場合ではない、というのは現実的にありそうです。これもよほど変な人であって、ちょっと普通じゃありません(呪いを受けています)。
プレイヤーのタイプの話はおしまいにしましょう。結局、ゲームに依存するという話だからです。
話を戻して「何回遊ぶために購入するか?」です。各げーむについて、こっちは○○用、あっちは○○用、 遊ぶシーンによりけりで、購入することを考えると遊ぶ以外の付加価値(や障害)も基準に入ってきて非常にややこしい話です。一つの観点で言うならば、ゲーム自体の良さをコストパフォーマンスで捉えて、つまりどれだけリプレイしたいかということが重要な要素です。
じゃあ次の段階として、リプレイしたいゲーム、したくないゲームってどんなの?ということですが、一つはしつこい話、「ランダム」と「インタラクション」ということになると思うのです。毎回マップが変わる、手札が変わる、判定結果が変わる、そういう「ランダムによる揺らぎ」とか、他人の存在が自分の意思決定に影響するという「インタラクションによる揺らぎ」がリプレイ欲求につながるだろうとということです。
もう一つは、ゲーム内のストーリーやアクションから、ある種の体験が得られるかどうかということです。快感が得られる体験なのであれば人はそれを繰り返したいと感じます。これは麻薬的なリプレイ性です。生物的にはどちらかといえばこちらが根源的で、もう少しレベルを上げたのが前述した内容になるかと思います。これらは快楽ピラミッドみたいなもので表現されそうですね。しかし一方で、この根源的な欲求の充足はボードゲームから得なくても良くないか?という結論に行き着くと思うのです。(だから私は、もっと理性的な(レベルの高い)楽しみを味わうことができるドイツゲームが素晴らしいと感じているのです。)
まとめると、
- 最適解を見つけるためのリプレイは本当の意味でのリプレイとは言い難い(解の探索過程)
- ゲームに込められた「ランダムによる揺らぎ」「インタラクションによる揺らぎ」がリプレイ欲求につながっている
- 人は結局快感には抗えないが、それは別にボードゲームじゃなくても良い(快楽欲求の充足)
一方で、解の探索型、快楽欲求の充足型となるゲームとプレイヤーの関係も捨て置けません。解の探索型の関係はゲームに執着させるような魅力がなければ起こりませんし、快楽欲求の充足型の関係は上手くエッセンスを取り入れて魅力的に見せているんではないかと思います。
完全に余談だけれど、play:gameボードゲーム・データベースでは、
pgdbの総合評価はボードゲームギークとまったく同じ10段階の基準を採用しています。最高は10で1が最低になります。pgdbでゲームの評価を下す場合、下記の基準と照らし合わせて公平に行ってください。マイナス評価も良いと思います。ただし、不当な評価ひとつでゲーム全体の印象が変わってしまう場合が往々にして有ります。責任のある評価をお願い致します。なお、pgdbでは総合評価を集計する際にベイズ推定法を使っています。この方法はある一定の評価数が集まるまでは1票が全体平均に及ぼす影響が少なくなるようになっているので、評価数が集まれば、公平な評価が出る仕組みになっています。というように、「プレイしたいかどうか」を評価基準に定めています。これに関しては私も大賛成で、箱の作りだとか、大きさとか、ルールブックのわかりやすさとか購入するときの指標には色々あるけども、それらはほとんど1回目のプレイやプレイ以前、プレイ外の話であるので、その辺を取り去って「プレイしたいかどうか」を「ゲームの評価」とするのはとても良いと思います。
10秀逸。常にプレイ。その意思が変わることは絶対にないだろう。 9素晴らしい。常にプレイしたい。 8とても良いゲーム。進んでプレイしたい。他の人にも薦める。 7良いゲーム。大抵プレイしたい思うゲーム。 6平均的なゲーム。楽しく、遊びがいが有る。プレイするだろう。 5平均的なゲーム。プレイしてもしなくても、どちらでもという程度。 4あまり良くないゲーム。付き合いで遊ぶ可能性はある。 3悪いゲーム。遊ぶことは無いが、 説得されれば遊んでも良い。 2非常に悪いゲーム。絶対にプレイしたくない。 1ゲームとしての定義を外れている。ゲームとして壊れている。
また、このガイドのいいところは点数付けの個人差がないところだと思います。いわばこれは点数評価ではなく、YES/NO回答形式なのであり、大は小を兼ねるように並べてくれているからです(減点法とか加点法とかそういうんじゃないのだ!)。並べ方が正しいかどうかは分からないけどね。
あ、もちろんパッケージやコンポーネント、プロモーションも大事ですよ。気持ちよく遊べる環境で、気持ちよく遊べるゲームを、楽しく遊んで、それからゲームについて考えたり話をしたりすることはとても楽しいです。総合的に楽しむためにはディレクションやディストリビューションも大変重要です。
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