2014-12-05

ゲーム時間と運

運の要素が強いゲームがあると、「これ運が強いから何回か繰り返して遊ぶといいよ」と結論付けされる風潮があります。

繰り返して遊ぶために必要なのは、そのゲームが短時間で遊べることです。つまり、運の要素が強いゲームは短時間ゲームであることが望ましいということになるでしょうか。

それはそれとして間違いないと思えますが、例外はあるでしょうか?

例外を考える前に、そもそもその一般論も、「どうしようもなく運が強いけど繰り返し遊べば遊べないこともない」程度の結論になってしまっていないか?という疑問が残ります。世界にそのゲーム一つしかないならば、そのゲームをなんとかして遊べるようにしたいところですが、娯楽がいくつもある実際の世界でわざわざそうする必要はありません。他のゲームで遊べばいいわけですから。

運の要素が強いゲーム、いわゆる運ゲーは(戦略的な面で)何も考えなくても遊べることが良いところです。言い換えれば「楽」なのです。そしてテーブルを囲んだ面子とそれを肴に笑いながら楽しいおしゃべりでもして過ごせれば、それはゲームの役割を十分に果たします。

逆があります。「めんどくさい」ゲームはその時間を邪魔するのです。忘れやすい処理があったり、行動から結果までの過程が複雑だったり、本当にめんどくさい作業があったり。

運ゲーでも良い条件は「めんどくさくない」ことではないかと思います。

「慣れ」というのは、めんどくさを軽減してくれます。短時間ゲームを繰り返すうちにゲームに「慣れ」ることは、ゲームをめんどくさくなくすることに繋がるのです。思考のめんどくささはまさにそうですが、作業のめんどくささも繰り返しによってクセ(ヤミツキ)になってしまうことすら人間にはあります。長時間ゲームは繰り返しにくいため、この利点が活かせません。

ルールが簡単なことは、ルールを忘れるリスクや思い出す手間を軽減してくれます。短時間ゲームは必然的にルールが簡単になります。いえ、もうこれは、タマゴが先かニワトリがという話かもしれません。ルールの把握が困難な短時間ゲームなんてめんどくさくてそもそも始めないのです。

「究極の運ゲー」という話を以前しましたが、「最悪の運ゲー」というのもあります。前者はどうしようもなく運に左右されるゲームのことで、後者は運によって台無しになっているゲームを指します。例えば、どんな道筋(選択や意思決定)を辿ってきても、最後の選択でほぼ結果が決まるという類のものがこれにあたります。最悪です。最悪ながらもここではそれを少しでもポジティブに捉える方法を考えます。例えば、最後の最後までは巧くやっていたことが分かるならば、「結果はどうあれ最良を尽くした」という満足を得ることができます。運の部分を切り捨ててゲーム内容を評価できる(勝ち負けは除く)のですから、救われます。しかし、結果だけを見ると何も考えないプレイヤーと変わらないわけですから、過程で楽しめたかどうかがゲームの評価のウェイトを占めます。

運ゲーでも良いもう一つの条件は「行為そのものが楽しい」ことではないかと思います。

行為にも色々ありますが、長く持続する行為というのは必然的に少なくなります。人が一番長く体験できる行為に「一生」というものがありますが、だいたいはいくつもの行為の積み重ねによって成り立っているだけです。

しかし中には、長くなるほど面白いという行為もあります、例えば、30年間仕込んだドッキリというのは想像できない面白さや面白さ以上の感動があるでしょう。ドキュメンタリーなんかも、5分のものより120分のほうが得られる情報の多さに比例した感情移入体験ができるでしょう。後者の体験に近いものとして挙げることができる「人生ゲーム」は長時間の運ゲーの好例であると思います。仕込みによる感動や達成感はいわゆる「ブラフゲーム」で得られるかもしれません。例えば、「人狼」は短絡的には運ゲーと言えますが、勝利のために必死に仕込みを働いたりすることが出来るわけです。そしてこのゲームもある程度長時間になるゲームです。人生ゲームや人狼には、ルールが簡単という、先にも上げたオプションも備わっています。

奇しくも、日本でメジャーでありながらも「嫌われゲーム」の代名詞である二つのゲームが、どうも良い運ゲーらしいということがわかりました。

ここまで書いておいてなんですが、これらのゲームは私が対象としたい、いわゆるドイツゲームの枠に入っていないように感じられます。ドイツゲームにおける程よい運とはどういうものかは、まだまだ分からないようです。 ただ、その外堀が少しずつ埋めらたという実感はあります。

2014-12-03

ランダマイザの話

ことドイツゲームに関しては、程よい運がポイントであると、これは前にも書きました。というよりこのブログのテーマでもあります。

ゲームを楽しむため、あるいはゲームの表情が豊かになるために欠かせない要素の一つが運なのであれば、プレイヤーは運によって生かされており、運を楽しんでいるといっても過言ではないでしょう。もちろん他の要素と複合的に楽しむわけですが。

ここで言う運というのは、プレイヤーの意思に関係なく訪れる偶然ということで話を進めます。

この偶然は別視点からみると、様々な形で規定されたルールのどこかの部分が確率を生成していて、それがゲーム中のあらゆる部分で運という形で姿を現したものであると言うことが出来ます。「確率を生成しているどこかの部分」を取り出し、モジュールとして捉えられたものをここでは一様に「ランダマイザ」と呼ぶことにします。

前置きが長くなりましたが、このページではランダマイザについてアレコレ書こうと思います。ただランダマイザも様々なレベルで無数に存在するため、個別の考察については別のページで行うことにして、ここでは外観を捉えるための整理をします。

例えば、レベル低いランダマイザの代表として、「コイン投げ」、「ダイスロール」、「ルーレット」などがあります。これらは、出目などの結果を確率として直接的に定義している装置です。

「カードドロー」、「タイル引き」は一般に結果の多いランダマイザでであり、一般に結果の多様性が徐々に減少し、各結果が起こる確実性が高まっていく(エントロピーが下がってゆく)性質があると言えます。その為、カウンティングという技術を磨くことによって正確な確率を読み取ることが出来ます。運だけでなく、技術も必要になることから、少しレベルの高いランダマイザと言えましょう。

すごく特殊なところで、「ジャンケン」は『究極の運ゲー』であるということから、ランダムの要素がないにも関わらず逆にランダマイザとして多くの場面で用いられます。究極的には様々な技量が結果に作用するとも言えますが、ほとんどの場面では一様な確率をもったランダマイザとして用いられています。

RPGにおける成功判定はダイスのロールによって行われることが多くありますが、ルールによって最大出目は絶対成功、最小出目は絶対失敗というように低確率に良い結果と悪い結果が担保されているものもあります。この低確率の担保はドラマを生むために重要で、例えば、モンスター○ァームやスパ○ボの攻撃命中確率(命中率の下限を1%上限を99%している)など、テレビゲームのシーンでも見受けられます。

運はプレイヤーにドラマを与えてくれます。ゲームに対してどこまでドラマチックな展開を望んでいるかによって、その人の運の強さへの許容範囲は変わります。運が強すぎてしまえば運ゲー、弱すぎてしまえばドキドキの足りない単調なゲームとラベリングされてしまいます。

冒頭に言ったように、運によってプレイヤーが生かされているとするならば、ゲームデザインにとってランダマイザの選択は非常に重要です。

少し別の話で、ボードゲームではアナログな処理(や体験)が含まれることから、全く同じ確率のランダマイザであってもゲームに与える印象が変わる場合もあります。例えば、人生ゲームにおいて1~10のルーレットを使わずに10面ダイスを使ったらどうでしょうか?きっと人生ゲームの全体の楽しさの半分近くが失われるのではないでしょうか。それは言い過ぎか。

一口にランダマイザと言っても、定義する確率だけでなく、コンポーネントを介した処理の方法など、様々な異なる要素が含まれます。それらをひっくるめてゲームごと、シーンごとに総合的に適したランダマイザの選別がボードゲームの楽しさを演出する上で重要になってきます。

ランダマイザの個別のページ(予定)では、様々なランダマイザをいくつかの観点から整理しながら理解していけたらと思います。
(なんかちょっと制作よりの話になりました。たまにあります。)

すごろくと運

人生ゲームは面白くない ということをたまに耳にします。私個人の意見として人生ゲームには人生ゲームの楽しさや楽しみ方があると思っていますが、それはまた別の機会にでも書くとします。

人生ゲームはすごろくゲームに分類できるかと思います。本稿ですごろくゲームというものを厳密に分類するつもりはありません。すごろくゲーム最低限の要素を考えると、(1)手番のはじめに進むマス数をランダムに決める、(2)止まったマスで何かイベントが起きる(あるいはまったく何も起きない)、(3)誰かがゴールに到達したらゲームが終了し勝敗を決める、という3つでしょうか。

これ以上の要素を含まないものを「すごろく」とするなら、すごろくは運ゲーです。

実際のところはどうでしょうか?ランダム性、インタラクション性の順番にみていきましょう。

ランダム性に関わるところで、まずずばり(1)手番に進むマスの数がランダムに決まるというところがあります。そのため、一番先にゴールした人が勝者になるのであれば、自分と他の人とのランダム運の強さを単純に競うゲームになります。止まったマスにお宝が落ちていて、終了までにそれらを一番多く集めた人が勝者になるのであっても、マスに止れるかどうかが、結局ランダムの運によって決定されるためやはり運の強さを競うゲームになりそうです。

インタラクション性に関わるところでは、まず(3)勝敗の判定の部分があるでしょう。目的達成の成否ではなく数人の中から一人決めるという点では対戦者間の状態が大きく明暗を分けます。しかしこのことを考慮しても上で述べたように、各自の運の強さを比べるだけなので運ゲーの域を出ることはありません。

インタラクション性に関わる可能性があるところとして、(2)止まったマスでのイベントがあります。例えばここで、任意の誰かを5マス戻すとか、誰かからお宝を奪うとか、そういう意思によって相手と関われるとしたらどうでしょうか?結論から言えば運ゲーの域を出ることはありません。なにしろこれらのイベントのトリガーはやはりランダムの運によりますし、イベント後の展開をいくら考えても、ランダムに依存するので、一番勝利に近い人の足を引っ張るという戦略(あるいは自分が勝利に近づく戦略)しか取りようがなく、それはほとんど自動的に決定するからです。

運ゲーと言えるポイントはほぼ三番目に集約されていて、取りうる戦略が乏しいから、つまり戦略性が低いため運ゲーであるというわけです。

さて、最後に、前回も出てきたいい加減なイメージ図を添付します。



すごろくとじゃんけんはこのグラフにおいてほとんど対極にあるにも関わらず、どちらも高いレベルの運ゲーです。今回言いたかったことはここで、運ゲーには二種類あり、ランダム性が高いために運ゲーになるもの、インタラクション性が高いため運ゲーになるものがあります、ということです。前者は結構当たり前なので、今回の議論は無駄が大きかったかもしれません。

ここまで、極端な二例を紹介したのは、今後この間にある様々なゲームを探っていく準備をしたかったからです。たくさんの良いゲームはランダム性とインタラクション性がほどよいものであるはずです。

ところで、インタラクション性が高くランダム性のないゲーム(じゃんけんと同じところにプロットされるゲーム)で運ゲーじゃないものもありますよね?ありますね。次はその辺りを議論するかもしれません。想像を働かせながらお待ちください。

2014-12-02

じゃんけんと運

いきなり抽象的なことを書くのもアレなので、『究極の運ゲー』と名高い「じゃんけん」を例に挙げて書きます。ここで運に対する私のスタンスが一つわかるかと思います。

結論から言えばじゃんけんは、運ゲーです。

「ゲーム」特に「アナログゲーム」は『人』と『人』がとある『場所』に集まって、固有の『ルール』の上で遊ばれます。人とルールを繋ぐために『ゲームコンポーネント』があったり、その他様々な要素が絡み合ってゲームは成り立っています。そういう事実はあるとして、ここでは話を簡単にするために、人と人との遊びの媒介としてゲーム本体(ルールや用具)があるという構図を考えましょう。

まず運の要素はゲーム本体、ここではじゃんけんというゲームのルールにあるか考えます。少し考えればじゃんけんにはランダム性が全くないことがわかります。なので運の要素はありません。

・・・本当でしょうか?

ゲームのルールは手順やランダム性のほかに、ゲーム参加者同士をどう関わらせるかも決めます。これをインタラクション性と呼びますが、じゃんけんは同時に手を公開して、出された手を比較することによって勝敗が決められます。勝敗の行方は自分がどの手を出そうとも相手の手次第で決まる(さらには全ての可能性が均等に存在する)ことが明らかです。相手が何を出してくるかわからない、あえて言えば均等に出してくる可能性がある場合、自分の手が決められない、結局、じゃんけんは勝敗を天に祈るしかない、運ゲーなのです。

まとめるとじゃんけんは、ランダム性はないものの、インタラクション性が最大であるため、戦略的に振る舞えない、戦略性が非常に乏しいゲーム、つまり『運ゲー』なのです。

しかしここまでの議論だけではじゃんけんはまだ、結構高レベルな運ゲーどまりです。これが『究極の運ゲー』と見なされるためにはいくつかの議論が必要です。しかし、どう究極かは一旦置いておきます。

今回私が言いたかったことは、次の二つです。
  • ゲームルールはランダム性とインタラクション性を規定する
  • ランダム性がなくともインタラクション性次第で戦略性が乏しくなり運ゲーになる

おしまい

2014-12-01

《努力と幸運と》 このブログのこと

いま、いわゆるドイツゲームと呼ばれるボードゲームが楽しいです。

「戦略性と運のバランスが程よいゲームのことをドイツゲームといいます。」

極端ですが、そんな説明を良く耳にします。私も大体あってると思うのですが、では、たくさんある中で具体的にはどれがドイツゲーム?と聞けば、三者三様のゲームが挙げられることでしょう。程よいというのは魔法の言葉です。

ドイツゲームとは何か?を考えるのはまた今度にして、ドイツゲームは「程よい運」が魅力の一つなのは間違いなく、またそれが求められています。なぜボードゲームに程よい運が求められるのでしょうか?これはボードゲームというものがどういう立場にあるのかということを考えると一つの答えにたどり着くのではないかと思います。

ボードゲームは遊びの道具です。また、ボードゲームは複数人で楽しむための道具です。もちろん例外はあります。しかし、ボードゲームの一番の立場は複数人で遊んで楽しむための道具だと、私は思っています。ゲーム参加者が複数いれば、それぞれの思考的な能力はバラバラです。能力がバラバラなグループ内で能力比べをしたら、得意な人が勝って終わりです。勝ち負けがわかっているゲームで楽しめる人はそう多くはいません。もし負けても「次は勝てるかも」「もっと上手くやれそう」という期待がまたゲームで楽しもうということにつながるのです。そういう期待を持たせるためには、能力以外の要素、一番簡単なものとして、誰にでも平等に訪れる可能性のある「運」、が必要になるわけです。ならば、運の要素が強ければいいかといえば、もちろんそうではありません。程よく必要なのです。ではどれくらいが程よいのか?

この問いには簡単には答えられません。答えがないかもしれません。大きな答えとしては楽しむために必要最低限ぐらいがよい、ということなのかもしれませんが、ほとんど答えになっていません。

そういうわけで、当ブログでは、複数人で楽しむの道具としてのボードゲームと運の関係について、様々な点から議論していこうと思っています。

よろしくお付き合い下さい。