2015-12-13

プレイを簡単にする方法としてのボードゲーム化

カードゲームとボードゲームで同じゲームを遊べるとしたら、どちらが遊びやすいか?

という趣旨をネタにツイッター投票機能を初めて使ってみたところ、以下のような結果が得られました。ご回答ありがとうございました。


まあ、この話は置いとくとして、私はコネくり回されて遊びやすさを犠牲にしているカードゲームが嫌いで、過剰にコンポーネントを使ってでも遊びやすくデベロップされたボードゲームが好きです。・・・と言ったそばから、大きな箱は苦手だし、机にだだっ広く並べるゲームもあまり好きではないのでいきなり矛盾するのですが、その理由は置き場所とか、持ち運びとか、プレイスペースの確保とかが問題ということなので今は胸にしまうことます。(コネくり回されて遊びにくいカードゲームがどういうものでどこが嫌なのかという内容はネガティブなので胸にしまって触れないことにしました。)

遊ぶ環境まで考慮してゲームをデベロップすることは実際素晴らしいことです。ですが、「ゲームの面白さ」の方向で考えると、「持ち運びにくい」とか「広い場所が必要」とかは二の次で、まず「遊べたとしてそれが面白いのか」が重要になってきます。遊ぶゲームの選択肢がいくらでもある昨今では、それがより重要になると思うのです。

ゲームの面白さと一言で言っても色々あります。中でも私の場合は考えたり悩んだりすることから快感を得られるゲームが面白いと思っています。

その辺りの中身の議論については別の場所で触れるとして、その中身の面白さの一助となる要素が「遊びやすさ」です。間違いありません。

そもそもゲームは全て簡単であるべきです。「ちょっと複雑なゲームが良い」といった場合の複雑さとは思考の複雑さであって、ルールや処理の複雑さのことではないことは明らかです。

遊びやすくする工夫の一つにサマリーなどのプレイエイドを利用することが挙げられます。それらによってゲームが遊びやすくなれば、思考に集中できるようになったり、コミュニケーションに集中できるようになったり、もう一つ上の戦略や楽しみ方を検討したりすることができます。あ~このカードはなんだっけ、次の処理は・・・なんてしている間は脳みそがビジー状態で、リッチな思考が出来ません。

プレイエイドなどをコンポーネントとして取り入れるとどうなるでしょうか?そうです、極めて低コスト(※お金のことではないです)でルールを追加することができます。例えば、15点先取のゲームに得点トラックを導入することを考えます。得点トラックの良さは、コマの進み具合によって誰が優勢かを一目で判断できることです。そして、15点の所に「あなたがチャンピオン!」と書き入れます。ここまでがプレイエイドです。では13点のマスに「人気失墜!3マス戻る」と書いたらどうでしょうか?・・・面白いかどうかはともかく(!)、簡単にルールを追加することができました。あとついでにフレーバーも加わりました。

面白いかどうかはともかくと言いつつも、面白さを過大に評価してみるならば、「何かのエンジンをもって得点を効率よく稼いでいく」という元々のゲーム性に加えて、「ある点数にはならないようにコントロールする」という要素が加わったと期待できます。それがうまく元のゲームと噛み合うかは個別のケースに依ります。

もう少し得点トラックで遊んでみましょう。マスを丸い形にします(15点は四角のままにしておきましょう)。そして、マスの丸と同じ大きさで、裏表に「女子アナと結婚!3マス進む」とかがいっぱい書かれたタイルをマスと同じ数だけ用意してみたらどうでしょうか?・・・面白いかどうかはともかく(少なくとも私の好みからは外れました!)、初期配置としてマスにランダムに配置して波乱万丈すごろく風に遊ぶのだな~と予想がつかないでしょうか?

このように、遊びやすさの向上を目的としてコンポーネントを贅沢に使う(≒ボードゲーム化する)ことは、良いことです。具体的には、私が大好きなボードゲームがたくさん生まれる可能性が増えることにつながります。ですので、製作者のみなさんは是非やりましょう。

でも製作するとなると実際問題として、在庫の置き場所とか原価とかの問題が生じてすごくツラい部分もありますよね。ですからそこは、まあ、好きに作ればいいんじゃないでしょうか。なによりもフォーミーなものをどんどん作りましょう!ボドゲを製作するみなさんを応援しています。

Q.カードゲームとボードゲームの境界線はどこか?
A.そんなのは些細なことです.わかりません.

2015-12-05

何回遊ぶために購入するか?

このブログの話ですが、取り留めのない内容をダラダラ書き綴り、結論と思しきものは途中途中にちょこっと出てくる仕様なっており、しかも出てくる結論も言われるまでもない自明のものであったりします。これは私がそもそも結論を考えてから書いていないということと、思考の過程を大事にしていることによります。まあ、個人ブログなので私の満足するように書いているだけ、というのが全てなのですが。(公表前に構成をやり直せというのはもっともな話です。)

ボードゲームにおいても(ひいては色々な作品においても)、それに出会ってから、自分の中で「こういうものである」と結論付けするまでの思考する時間はとても重要だと思っています。それに付随する事例として、ボードゲームのインストでは「とうやったら強いのか」 、「どういう風に楽しむのか」といったことは教えないほうがよいという意見が聞かれます。相手に勝つ、相手と楽しむためのボードゲームにおいてその方法を教えてしまうことは、思考の体験(=楽しみ)の一つを奪ってしまいかねないからです。

ボードゲームを趣味とする界隈には、リプレイ派と非リプレイ派という人たちが存在します。派と書いてしまうと対立しているように捉えられるので、しばしば議論のネタにあがるのですが、おそらく明確に自身の属する派閥を意識している人は極少数で、そもそも趣味の話なのでそれぞれの派閥についてとやかく言うのは無粋でしょう。

リプレイ派(同じゲームを何度もプレイする人)の中にも二通りいて、「強い戦略をみつけるため」「繰り返し遊んで楽しむため」、という人(あるいはその両方)がいます。前者は、やはり結論を見つけるためにプレイすると言えますが、ほとんどの場合最適がみつからないため、その人が満足するまで追求したぐらいで(人によってはシステムの大枠やその動きがわかった程度で)いつしかプレイしなくなるのではないかと思います。そういう意味では非リプレイ派と本質的には同じかもしれません。後者は、ちょっと違っていて、「繰り返し遊んで楽しむため」にリプレイする人は、ゲームに対する考えなど、なにか実質的な進展がなくても繰り返し遊ぶため、本当の意味でのリプレイ派と言えそうです。

前者のリプレイ派のリプレイ理由はゲームが難解で、解き甲斐がありそうだからというのが一つです。後者のリプレイ派のリプレイ理由は何はなくとも純粋にプレイが楽しいからでしょう。これ以上の理由は必要ありません。しかし後者は極端なことを言えば、これ以上に楽しいものを見つけたらリプレイをやめてしまうということになりそうです。

これは結局どんなことにも当てはまって、完全なリプレイ派なんてよほど変な人か事情を抱えている人ということになるんじゃないでしょうか。呪いとか。

そういう意味ではリプレイ派と非リプレイ派と区別してもしょうがありません(そもそも地続きなのですが)。非リプレイ派が仮にいるとして、リプレイしない理由でもっともらしいものといえば、この世に無数のゲームがあるからやりつくすためには時間がいくらあっても足りない、同じものをやっている場合ではない、というのは現実的にありそうです。これもよほど変な人であって、ちょっと普通じゃありません(呪いを受けています)。

プレイヤーのタイプの話はおしまいにしましょう。結局、ゲームに依存するという話だからです。

話を戻して「何回遊ぶために購入するか?」です。各げーむについて、こっちは○○用、あっちは○○用、 遊ぶシーンによりけりで、購入することを考えると遊ぶ以外の付加価値(や障害)も基準に入ってきて非常にややこしい話です。一つの観点で言うならば、ゲーム自体の良さをコストパフォーマンスで捉えて、つまりどれだけリプレイしたいかということが重要な要素です。

じゃあ次の段階として、リプレイしたいゲーム、したくないゲームってどんなの?ということですが、一つはしつこい話、「ランダム」と「インタラクション」ということになると思うのです。毎回マップが変わる、手札が変わる、判定結果が変わる、そういう「ランダムによる揺らぎ」とか、他人の存在が自分の意思決定に影響するという「インタラクションによる揺らぎ」がリプレイ欲求につながるだろうとということです。

もう一つは、ゲーム内のストーリーやアクションから、ある種の体験が得られるかどうかということです。快感が得られる体験なのであれば人はそれを繰り返したいと感じます。これは麻薬的なリプレイ性です。生物的にはどちらかといえばこちらが根源的で、もう少しレベルを上げたのが前述した内容になるかと思います。これらは快楽ピラミッドみたいなもので表現されそうですね。しかし一方で、この根源的な欲求の充足はボードゲームから得なくても良くないか?という結論に行き着くと思うのです。(だから私は、もっと理性的な(レベルの高い)楽しみを味わうことができるドイツゲームが素晴らしいと感じているのです。)

まとめると、
  • 最適解を見つけるためのリプレイは本当の意味でのリプレイとは言い難い(解の探索過程)
  • ゲームに込められた「ランダムによる揺らぎ」「インタラクションによる揺らぎ」がリプレイ欲求につながっている
  • 人は結局快感には抗えないが、それは別にボードゲームじゃなくても良い(快楽欲求の充足)
という感じだろうか。どうやら私の興味はやはり「揺らぎ」がキーワードになるっぽいけれど、具体的にはどういうのがいいの?という所を追求しようというのがこのブログの趣旨なのでまだ答えはありません。

一方で、解の探索型、快楽欲求の充足型となるゲームとプレイヤーの関係も捨て置けません。解の探索型の関係はゲームに執着させるような魅力がなければ起こりませんし、快楽欲求の充足型の関係は上手くエッセンスを取り入れて魅力的に見せているんではないかと思います。

完全に余談だけれど、play:gameボードゲーム・データベースでは、
pgdbの総合評価はボードゲームギークとまったく同じ10段階の基準を採用しています。最高は10で1が最低になります。pgdbでゲームの評価を下す場合、下記の基準と照らし合わせて公平に行ってください。マイナス評価も良いと思います。ただし、不当な評価ひとつでゲーム全体の印象が変わってしまう場合が往々にして有ります。責任のある評価をお願い致します。なお、pgdbでは総合評価を集計する際にベイズ推定法を使っています。この方法はある一定の評価数が集まるまでは1票が全体平均に及ぼす影響が少なくなるようになっているので、評価数が集まれば、公平な評価が出る仕組みになっています。
10
秀逸。常にプレイ。その意思が変わることは絶対にないだろう。
素晴らしい。常にプレイしたい。
とても良いゲーム。進んでプレイしたい。他の人にも薦める。
良いゲーム。大抵プレイしたい思うゲーム。
平均的なゲーム。楽しく、遊びがいが有る。プレイするだろう。
平均的なゲーム。プレイしてもしなくても、どちらでもという程度。
あまり良くないゲーム。付き合いで遊ぶ可能性はある。
悪いゲーム。遊ぶことは無いが、 説得されれば遊んでも良い。
非常に悪いゲーム。絶対にプレイしたくない。
ゲームとしての定義を外れている。ゲームとして壊れている。
というように、「プレイしたいかどうか」を評価基準に定めています。これに関しては私も大賛成で、箱の作りだとか、大きさとか、ルールブックのわかりやすさとか購入するときの指標には色々あるけども、それらはほとんど1回目のプレイやプレイ以前、プレイ外の話であるので、その辺を取り去って「プレイしたいかどうか」を「ゲームの評価」とするのはとても良いと思います。

また、このガイドのいいところは点数付けの個人差がないところだと思います。いわばこれは点数評価ではなく、YES/NO回答形式なのであり、大は小を兼ねるように並べてくれているからです(減点法とか加点法とかそういうんじゃないのだ!)。並べ方が正しいかどうかは分からないけどね。

あ、もちろんパッケージやコンポーネント、プロモーションも大事ですよ。気持ちよく遊べる環境で、気持ちよく遊べるゲームを、楽しく遊んで、それからゲームについて考えたり話をしたりすることはとても楽しいです。総合的に楽しむためにはディレクションやディストリビューションも大変重要です。

2014-12-05

ゲーム時間と運

運の要素が強いゲームがあると、「これ運が強いから何回か繰り返して遊ぶといいよ」と結論付けされる風潮があります。

繰り返して遊ぶために必要なのは、そのゲームが短時間で遊べることです。つまり、運の要素が強いゲームは短時間ゲームであることが望ましいということになるでしょうか。

それはそれとして間違いないと思えますが、例外はあるでしょうか?

例外を考える前に、そもそもその一般論も、「どうしようもなく運が強いけど繰り返し遊べば遊べないこともない」程度の結論になってしまっていないか?という疑問が残ります。世界にそのゲーム一つしかないならば、そのゲームをなんとかして遊べるようにしたいところですが、娯楽がいくつもある実際の世界でわざわざそうする必要はありません。他のゲームで遊べばいいわけですから。

運の要素が強いゲーム、いわゆる運ゲーは(戦略的な面で)何も考えなくても遊べることが良いところです。言い換えれば「楽」なのです。そしてテーブルを囲んだ面子とそれを肴に笑いながら楽しいおしゃべりでもして過ごせれば、それはゲームの役割を十分に果たします。

逆があります。「めんどくさい」ゲームはその時間を邪魔するのです。忘れやすい処理があったり、行動から結果までの過程が複雑だったり、本当にめんどくさい作業があったり。

運ゲーでも良い条件は「めんどくさくない」ことではないかと思います。

「慣れ」というのは、めんどくさを軽減してくれます。短時間ゲームを繰り返すうちにゲームに「慣れ」ることは、ゲームをめんどくさくなくすることに繋がるのです。思考のめんどくささはまさにそうですが、作業のめんどくささも繰り返しによってクセ(ヤミツキ)になってしまうことすら人間にはあります。長時間ゲームは繰り返しにくいため、この利点が活かせません。

ルールが簡単なことは、ルールを忘れるリスクや思い出す手間を軽減してくれます。短時間ゲームは必然的にルールが簡単になります。いえ、もうこれは、タマゴが先かニワトリがという話かもしれません。ルールの把握が困難な短時間ゲームなんてめんどくさくてそもそも始めないのです。

「究極の運ゲー」という話を以前しましたが、「最悪の運ゲー」というのもあります。前者はどうしようもなく運に左右されるゲームのことで、後者は運によって台無しになっているゲームを指します。例えば、どんな道筋(選択や意思決定)を辿ってきても、最後の選択でほぼ結果が決まるという類のものがこれにあたります。最悪です。最悪ながらもここではそれを少しでもポジティブに捉える方法を考えます。例えば、最後の最後までは巧くやっていたことが分かるならば、「結果はどうあれ最良を尽くした」という満足を得ることができます。運の部分を切り捨ててゲーム内容を評価できる(勝ち負けは除く)のですから、救われます。しかし、結果だけを見ると何も考えないプレイヤーと変わらないわけですから、過程で楽しめたかどうかがゲームの評価のウェイトを占めます。

運ゲーでも良いもう一つの条件は「行為そのものが楽しい」ことではないかと思います。

行為にも色々ありますが、長く持続する行為というのは必然的に少なくなります。人が一番長く体験できる行為に「一生」というものがありますが、だいたいはいくつもの行為の積み重ねによって成り立っているだけです。

しかし中には、長くなるほど面白いという行為もあります、例えば、30年間仕込んだドッキリというのは想像できない面白さや面白さ以上の感動があるでしょう。ドキュメンタリーなんかも、5分のものより120分のほうが得られる情報の多さに比例した感情移入体験ができるでしょう。後者の体験に近いものとして挙げることができる「人生ゲーム」は長時間の運ゲーの好例であると思います。仕込みによる感動や達成感はいわゆる「ブラフゲーム」で得られるかもしれません。例えば、「人狼」は短絡的には運ゲーと言えますが、勝利のために必死に仕込みを働いたりすることが出来るわけです。そしてこのゲームもある程度長時間になるゲームです。人生ゲームや人狼には、ルールが簡単という、先にも上げたオプションも備わっています。

奇しくも、日本でメジャーでありながらも「嫌われゲーム」の代名詞である二つのゲームが、どうも良い運ゲーらしいということがわかりました。

ここまで書いておいてなんですが、これらのゲームは私が対象としたい、いわゆるドイツゲームの枠に入っていないように感じられます。ドイツゲームにおける程よい運とはどういうものかは、まだまだ分からないようです。 ただ、その外堀が少しずつ埋めらたという実感はあります。

2014-12-03

ランダマイザの話

ことドイツゲームに関しては、程よい運がポイントであると、これは前にも書きました。というよりこのブログのテーマでもあります。

ゲームを楽しむため、あるいはゲームの表情が豊かになるために欠かせない要素の一つが運なのであれば、プレイヤーは運によって生かされており、運を楽しんでいるといっても過言ではないでしょう。もちろん他の要素と複合的に楽しむわけですが。

ここで言う運というのは、プレイヤーの意思に関係なく訪れる偶然ということで話を進めます。

この偶然は別視点からみると、様々な形で規定されたルールのどこかの部分が確率を生成していて、それがゲーム中のあらゆる部分で運という形で姿を現したものであると言うことが出来ます。「確率を生成しているどこかの部分」を取り出し、モジュールとして捉えられたものをここでは一様に「ランダマイザ」と呼ぶことにします。

前置きが長くなりましたが、このページではランダマイザについてアレコレ書こうと思います。ただランダマイザも様々なレベルで無数に存在するため、個別の考察については別のページで行うことにして、ここでは外観を捉えるための整理をします。

例えば、レベル低いランダマイザの代表として、「コイン投げ」、「ダイスロール」、「ルーレット」などがあります。これらは、出目などの結果を確率として直接的に定義している装置です。

「カードドロー」、「タイル引き」は一般に結果の多いランダマイザでであり、一般に結果の多様性が徐々に減少し、各結果が起こる確実性が高まっていく(エントロピーが下がってゆく)性質があると言えます。その為、カウンティングという技術を磨くことによって正確な確率を読み取ることが出来ます。運だけでなく、技術も必要になることから、少しレベルの高いランダマイザと言えましょう。

すごく特殊なところで、「ジャンケン」は『究極の運ゲー』であるということから、ランダムの要素がないにも関わらず逆にランダマイザとして多くの場面で用いられます。究極的には様々な技量が結果に作用するとも言えますが、ほとんどの場面では一様な確率をもったランダマイザとして用いられています。

RPGにおける成功判定はダイスのロールによって行われることが多くありますが、ルールによって最大出目は絶対成功、最小出目は絶対失敗というように低確率に良い結果と悪い結果が担保されているものもあります。この低確率の担保はドラマを生むために重要で、例えば、モンスター○ァームやスパ○ボの攻撃命中確率(命中率の下限を1%上限を99%している)など、テレビゲームのシーンでも見受けられます。

運はプレイヤーにドラマを与えてくれます。ゲームに対してどこまでドラマチックな展開を望んでいるかによって、その人の運の強さへの許容範囲は変わります。運が強すぎてしまえば運ゲー、弱すぎてしまえばドキドキの足りない単調なゲームとラベリングされてしまいます。

冒頭に言ったように、運によってプレイヤーが生かされているとするならば、ゲームデザインにとってランダマイザの選択は非常に重要です。

少し別の話で、ボードゲームではアナログな処理(や体験)が含まれることから、全く同じ確率のランダマイザであってもゲームに与える印象が変わる場合もあります。例えば、人生ゲームにおいて1~10のルーレットを使わずに10面ダイスを使ったらどうでしょうか?きっと人生ゲームの全体の楽しさの半分近くが失われるのではないでしょうか。それは言い過ぎか。

一口にランダマイザと言っても、定義する確率だけでなく、コンポーネントを介した処理の方法など、様々な異なる要素が含まれます。それらをひっくるめてゲームごと、シーンごとに総合的に適したランダマイザの選別がボードゲームの楽しさを演出する上で重要になってきます。

ランダマイザの個別のページ(予定)では、様々なランダマイザをいくつかの観点から整理しながら理解していけたらと思います。
(なんかちょっと制作よりの話になりました。たまにあります。)

すごろくと運

人生ゲームは面白くない ということをたまに耳にします。私個人の意見として人生ゲームには人生ゲームの楽しさや楽しみ方があると思っていますが、それはまた別の機会にでも書くとします。

人生ゲームはすごろくゲームに分類できるかと思います。本稿ですごろくゲームというものを厳密に分類するつもりはありません。すごろくゲーム最低限の要素を考えると、(1)手番のはじめに進むマス数をランダムに決める、(2)止まったマスで何かイベントが起きる(あるいはまったく何も起きない)、(3)誰かがゴールに到達したらゲームが終了し勝敗を決める、という3つでしょうか。

これ以上の要素を含まないものを「すごろく」とするなら、すごろくは運ゲーです。

実際のところはどうでしょうか?ランダム性、インタラクション性の順番にみていきましょう。

ランダム性に関わるところで、まずずばり(1)手番に進むマスの数がランダムに決まるというところがあります。そのため、一番先にゴールした人が勝者になるのであれば、自分と他の人とのランダム運の強さを単純に競うゲームになります。止まったマスにお宝が落ちていて、終了までにそれらを一番多く集めた人が勝者になるのであっても、マスに止れるかどうかが、結局ランダムの運によって決定されるためやはり運の強さを競うゲームになりそうです。

インタラクション性に関わるところでは、まず(3)勝敗の判定の部分があるでしょう。目的達成の成否ではなく数人の中から一人決めるという点では対戦者間の状態が大きく明暗を分けます。しかしこのことを考慮しても上で述べたように、各自の運の強さを比べるだけなので運ゲーの域を出ることはありません。

インタラクション性に関わる可能性があるところとして、(2)止まったマスでのイベントがあります。例えばここで、任意の誰かを5マス戻すとか、誰かからお宝を奪うとか、そういう意思によって相手と関われるとしたらどうでしょうか?結論から言えば運ゲーの域を出ることはありません。なにしろこれらのイベントのトリガーはやはりランダムの運によりますし、イベント後の展開をいくら考えても、ランダムに依存するので、一番勝利に近い人の足を引っ張るという戦略(あるいは自分が勝利に近づく戦略)しか取りようがなく、それはほとんど自動的に決定するからです。

運ゲーと言えるポイントはほぼ三番目に集約されていて、取りうる戦略が乏しいから、つまり戦略性が低いため運ゲーであるというわけです。

さて、最後に、前回も出てきたいい加減なイメージ図を添付します。



すごろくとじゃんけんはこのグラフにおいてほとんど対極にあるにも関わらず、どちらも高いレベルの運ゲーです。今回言いたかったことはここで、運ゲーには二種類あり、ランダム性が高いために運ゲーになるもの、インタラクション性が高いため運ゲーになるものがあります、ということです。前者は結構当たり前なので、今回の議論は無駄が大きかったかもしれません。

ここまで、極端な二例を紹介したのは、今後この間にある様々なゲームを探っていく準備をしたかったからです。たくさんの良いゲームはランダム性とインタラクション性がほどよいものであるはずです。

ところで、インタラクション性が高くランダム性のないゲーム(じゃんけんと同じところにプロットされるゲーム)で運ゲーじゃないものもありますよね?ありますね。次はその辺りを議論するかもしれません。想像を働かせながらお待ちください。

2014-12-02

じゃんけんと運

いきなり抽象的なことを書くのもアレなので、『究極の運ゲー』と名高い「じゃんけん」を例に挙げて書きます。ここで運に対する私のスタンスが一つわかるかと思います。

結論から言えばじゃんけんは、運ゲーです。

「ゲーム」特に「アナログゲーム」は『人』と『人』がとある『場所』に集まって、固有の『ルール』の上で遊ばれます。人とルールを繋ぐために『ゲームコンポーネント』があったり、その他様々な要素が絡み合ってゲームは成り立っています。そういう事実はあるとして、ここでは話を簡単にするために、人と人との遊びの媒介としてゲーム本体(ルールや用具)があるという構図を考えましょう。

まず運の要素はゲーム本体、ここではじゃんけんというゲームのルールにあるか考えます。少し考えればじゃんけんにはランダム性が全くないことがわかります。なので運の要素はありません。

・・・本当でしょうか?

ゲームのルールは手順やランダム性のほかに、ゲーム参加者同士をどう関わらせるかも決めます。これをインタラクション性と呼びますが、じゃんけんは同時に手を公開して、出された手を比較することによって勝敗が決められます。勝敗の行方は自分がどの手を出そうとも相手の手次第で決まる(さらには全ての可能性が均等に存在する)ことが明らかです。相手が何を出してくるかわからない、あえて言えば均等に出してくる可能性がある場合、自分の手が決められない、結局、じゃんけんは勝敗を天に祈るしかない、運ゲーなのです。

まとめるとじゃんけんは、ランダム性はないものの、インタラクション性が最大であるため、戦略的に振る舞えない、戦略性が非常に乏しいゲーム、つまり『運ゲー』なのです。

しかしここまでの議論だけではじゃんけんはまだ、結構高レベルな運ゲーどまりです。これが『究極の運ゲー』と見なされるためにはいくつかの議論が必要です。しかし、どう究極かは一旦置いておきます。

今回私が言いたかったことは、次の二つです。
  • ゲームルールはランダム性とインタラクション性を規定する
  • ランダム性がなくともインタラクション性次第で戦略性が乏しくなり運ゲーになる

おしまい

2014-12-01

《努力と幸運と》 このブログのこと

いま、いわゆるドイツゲームと呼ばれるボードゲームが楽しいです。

「戦略性と運のバランスが程よいゲームのことをドイツゲームといいます。」

極端ですが、そんな説明を良く耳にします。私も大体あってると思うのですが、では、たくさんある中で具体的にはどれがドイツゲーム?と聞けば、三者三様のゲームが挙げられることでしょう。程よいというのは魔法の言葉です。

ドイツゲームとは何か?を考えるのはまた今度にして、ドイツゲームは「程よい運」が魅力の一つなのは間違いなく、またそれが求められています。なぜボードゲームに程よい運が求められるのでしょうか?これはボードゲームというものがどういう立場にあるのかということを考えると一つの答えにたどり着くのではないかと思います。

ボードゲームは遊びの道具です。また、ボードゲームは複数人で楽しむための道具です。もちろん例外はあります。しかし、ボードゲームの一番の立場は複数人で遊んで楽しむための道具だと、私は思っています。ゲーム参加者が複数いれば、それぞれの思考的な能力はバラバラです。能力がバラバラなグループ内で能力比べをしたら、得意な人が勝って終わりです。勝ち負けがわかっているゲームで楽しめる人はそう多くはいません。もし負けても「次は勝てるかも」「もっと上手くやれそう」という期待がまたゲームで楽しもうということにつながるのです。そういう期待を持たせるためには、能力以外の要素、一番簡単なものとして、誰にでも平等に訪れる可能性のある「運」、が必要になるわけです。ならば、運の要素が強ければいいかといえば、もちろんそうではありません。程よく必要なのです。ではどれくらいが程よいのか?

この問いには簡単には答えられません。答えがないかもしれません。大きな答えとしては楽しむために必要最低限ぐらいがよい、ということなのかもしれませんが、ほとんど答えになっていません。

そういうわけで、当ブログでは、複数人で楽しむの道具としてのボードゲームと運の関係について、様々な点から議論していこうと思っています。

よろしくお付き合い下さい。